第三の男
おとなしいイギリス人
なにを今更というグレアム・グリーンの傑作。
なんだが、映画は見ていても 原作は未読という方は多いのではないか。書斎(兼書庫)雪崩発掘本として読み直していたら思わぬ発見があってちょっと驚いた。
映画の印象が非常に強いのと、原作がノベライゼーションかと思うくらい軽いので、ちぐはぐな感じがするのだが一番驚いたのは「イギリス人」の問題だ。
映画ではジョセフ・コットン演じるアメリカ人作家(西部劇物の大衆作家)ホリー・マーチンソンは食いつめているにも関わらず、図々しく無神経に立ち回る人物として描かれている。他人の名前を平気で間違えるのはその典型。それが繰り返されるから、ホリーのいい加減さが際立ってくる。
第二次大戦後、連合国(米英仏ソ)の分断統治下にあるウィーンまで、がさつなアメリカ人作家は羽振りがいい友人ハリ―・ライム(オーソン・ウエルズ)を頼って、はるばる来訪してきたのだが。この友人のハリーがまた札付きの悪党で、不良品のペニシリンを密売し、多くの犠牲者を出しながら私腹肥やしている。
アメリカ人やりたい放題で、ウィーンの人間は腹立たしいだろうと思ったものだが、原作を読んだらちょっと違うのね。映画はホリーの視点で描かれているが、原作はキャラウェイ大佐(映画では何故か少佐)の視点。マーチンソンの名前もホリーならぬロロ(これはジョセフ・コットンが変えさせたらしい)。そしてなにより、ハリーもロロもイギリス人という設定なのだ。
ジョセフ・コットン、オーソン・ウェルズというアメリカの名優(稀世の名作『市民ケーン』の名コンビ)を起用した以上、無理にイギリス人を演じさせるのは無駄なことと思ったのだろう。しかし、この二人がイギリス人だったら、随分と印象の違う映画になっていたんだろうなあ。
原作を読んでますます映画の凄さが分かったというお話です。